日本の生糸 最後の砦「碓氷製糸株式会社」
2024年11月21日 公開
「富岡製糸場」がユネスコの世界文化遺産に登録されて、2024年に10周年を迎えました。そんな中、富岡製糸場に展示されている自動繰糸機(じどうそうしき)と同型の機械が現役で稼働し、国産生糸の約7割を生産しているという製糸工場があります。その名も「碓氷製糸(うすいせいし)株式会社」。ものづくり新聞の小柴寿美子(こしば すみこ)は、国内の製糸業の現状を知りたいと思い、群馬県安中市松井田町にある碓氷製糸株式会社を訪ねました。
日本最大の器械製糸工場「碓氷製糸株式会社」
東京から新幹線で高崎へ。そこからJR信越本線に乗り換えて西松井田駅まで約1時間半。緑豊かな農村地域を10分ほど歩くと、妙義山の麓に日本最大の器械製糸工場「碓氷製糸株式会社」が見えてきました。器械製糸工場とは、輸出用の生糸を作れる大型の製糸工場のこと。農林水産省の調べでは、国内の製糸工場は、昭和34年(1959年)のピーク時に1,871工場が稼働していたそうですが、器械製糸工場は、今では、碓氷製糸を含め、もう2社しか残っていません。
出迎えてくださったのは常務取締役 土屋真志(つちや まさし)さんです。
土屋さんは、1985年(昭和60年)4月、群馬県庁に入庁。碓氷製糸のある西部地域を始め、中部、東部と蚕業指導員を10年間勤めました。その後は、蚕糸課、世界遺産推進課、蚕糸園芸課長などを歴任。碓氷製糸の社長から熱烈なオファーを受け、定年退職後、2023年4月碓氷製糸株式会社へ入社。6月から常務取締役へ。前橋市内の自宅から毎日2時間かけて通勤しながら、工場見学案内から新商品開発まで何でもこなす日々を送っています。
生糸の生産工程を知る~製糸工場見学スタート!
碓氷製糸では、より多くの人に生糸を製造する様子を見てもらうため、工場見学を積極的に受け入れています。所要時間は約30分から1時間ほど。早速、土屋さんに案内していただきました。
①荷受(にうけ)
「荷受」とは、出荷されてきた繭を運び入れ、重さを量り、量を確定する作業のこと。品質の良しあしを調べるため、繭のサンプル採取も行います。
碓氷製糸の荷受場には全国各地から繭が集まってきます。全国といっても群馬、宮城、福島、栃木、茨城、千葉、岐阜、愛知、熊本の9県。令和5年の養蚕農家は全国に146戸、そのうち55戸は群馬県内の養蚕農家だそうです。
ーーたくさんの繭がありますね!
土屋さん:「碓氷製糸は、45トンの国産繭のうち30トンの繭を買っているんですよ。ちょうど3分の2、国内で生産されている繭のおよそ7割を使って、生糸を作っています。」
ーーこの中には海外の繭もあるんですか?
土屋さん:「いいえ、海外の繭は扱っていないです。国産にこだわって純国産のみを扱っています。」
平成 17 年の養蚕農家数は 1591 戸、収繭量は 626 トンでしたが、令和 5 年度にはそれぞれ 146 戸、45 トンとなり、この 20 年足らずの間にそれぞれ 1/10 以下にまで減少してしまいました。このままでは、かつて我が国の経済発展を支えてきた歴史のある養蚕業、製糸業が消滅してしまうのではないかという強い危機感を持っています。 引用:一般社団法人大日本蚕糸会 シルクレポート 2024年10月号(No83)新会頭就任挨拶より
②繭乾燥(まゆかんそう)
「繭乾燥」とは、その名の通り、繭を乾燥すること。出荷されたばかりの繭は、中で蛹(さなぎ)が生きている状態なので、羽化しないよう、荷受後すぐに繭を乾燥し、蛹を殺します。繭乾燥は繭の出荷時に行っているそうで、この日は稼働していませんでした。
③貯繭(ちょけん)
「貯繭」とは乾燥させた繭を倉庫に保管すること。乾燥させた繭は、品質や育てた時期によって分類し、繭倉庫に貯蔵されます。お客様からの生糸の注文に応じて必要な繭を倉庫から取り出し、生糸を作っているそうです。
④選繭(せんけん)
「選繭」とは、高級生糸の原料になる高品質の繭を選別する作業です。
2匹の蚕が作った玉繭(たままゆ)、汚れた繭、奇形の繭など、規格外の繭を取り除いていきます。取り除いた繭も捨てることなく、玉繭は玉糸(たまいと)にし、汚れた繭などは絹綿(きぬわた)の原料などに加工するそうです。
ベルトコンベアーの下から透過光線をあてているのは、外見からわかりにくい内部の汚れた繭を見やすくするためです。
⑤煮繭(しゃけん)
「煮繭」とは、繭の糸のほぐれを良くするため、お湯や水蒸気などで繭を煮ること。品質の良い生糸を作るためには、繭を均一に煮る必要があるそうで、高圧、高温、低温、蒸気の部屋など6室に分けて約20分間繭を煮ます。
⑥繰糸(そうし)
「繰糸」とは、煮繭から糸口を取り出し、数本の繭糸を合わせて目的の糸の太さの生糸を製造する作業です。これこそが、製糸工場の中心的な工程になります。
繭の表面を稲穂ホウキでこすりながら数本の繭糸をもつれた状態で引き出します。
1個の繭から1本の糸口が出ている状態にしてから、繰糸機の黄色い箱、給繭機(きゅうけんき)に補給されます。繰糸機にある繊度感知器が、生糸が細くなったことを感知すると、給繭機から自動的に繭が追加され、生糸は一定の太さで繰り続けられていきます。
土屋さん:「この機械は自動車メーカーの日産が作った1980年代の機械です。自動繰糸機(じどうそうしき)の開発が始まったのは昭和21年からで、戦後の復興とともにありました。こんな髪の毛の数分の1の繭糸を、ほとんど自動で生糸を挽くっていうのは、人類には作れないと言われるぐらい難しかったんですね。
でも、日産を始めとした数社がチャレンジをして、結果的には日産の機械が一番性能が良くて、日本の製糸工場で使われる自動繰糸機の約8割は日産の製品が使われるようになりました。 その後は輸出されて、世界のシルク産業を支える技術になりました。世界のシルク産業は今でも日本の技術革新で生まれた製糸技術が支えていると言っても過言ではありませんね。」
自動繰糸機のメーカーは,片倉工業,日産自動車,恵南産機,グンゼなどがある.自動繰糸機は,わが国が世界に先駆けて開発した研究者・技術者の英知の結集といえる. 引用:日本シルク学会誌27(2019)より
ーー従業員の方の手が早すぎて何をしているのかわからなかったんですが…。
土屋さん:「切れた生糸を結んでいるんですよ。かた結びです。小指と親指にかけて結ぶ。私もやってみましたけど、出来ないですね(笑)。」
生糸の太さを表す単位は「デニール」。繭糸1本の太さは約3デニールと言われ、髪の毛の4分の1から5分の1ほどの細さだそうです。1つの繭から1本の糸口を出し、目的の生糸の太さになるよう、繭糸を複数本合わせて1本の生糸にしていきます。
⑦揚返し(あげかえし)
「揚返し」とは、自動繰糸機で小枠(こわく)に巻き取られた生糸を大枠(おおわく)に巻き替えす作業のこと。こちらは、外周が150cmの大枠に巻き取っているところです。
⑧仕上げ
「仕上げ」とは、生糸の用途に合わせて出荷しやすい形状に整えること。揚返しで巻き取った生糸を捻じり「綛(かせ)」にします。それを20~24束に束ねたものを「括(かつ)」といいます。
土屋さん:「大枠に巻き替えた生糸をねじって、綛(かせ)という形状にしたものが和装用に使う生糸の出荷の仕方です。」
ーーこれは碓氷製糸のラベルですか?
土屋さん:「はい、女性の浮世絵です。昭和34年(1954年)に碓氷製糸が出来てからずっとこのラベルです。『RAW SILK(ロウシルク)』と英語で書いてあるのは、生糸が輸出製品だったので、これを見ると、外国の人も日本製、『ジャパニーズシルク』ということがちゃんとわかるようにしていました。いろんな会社が、例えば富士山、日本の着物を着ている女性、鷹とか、会社ごとにラベルが違ったんです。そういう意味ではブランド化の原点ですね。」
ーー「極 6A」というのはどういう生糸ですか?
土屋さん:「生糸にもいろいろな規格があり、A~6Aまで6ランクで品質を評価されています。
6Aが一番上で、最高品質の糸という意味です。6Aの基準はとても厳しく、なかなか作ることが出来ないのですが、工場長の今村さんが、繭を厳選し、煮繭機や繰糸機を念入りに調整し続けることで、苦労に苦労を重ねて製造可能となります。」
生糸はタオル地にも対応!
土屋さん:「これは『染色ボビン(写真右側)』という円筒形のボビンです。このボビンに生糸を巻き付けたものが『チーズ巻き(写真左側)』というタオルや洋装用の出荷の仕方です。工場では、このチーズ巻きのまま機械にかけることができます。見た目が欧米のチーズに似ていたことから「チーズ巻き」と名付けられたそうです。
碓氷製糸は平成7年(1995年)にこの機械を導入し、和装用、洋装用、両方対応できるようにしました。今村工場長はいろいろな糸を作れますし、繭も群馬オリジナルの品種があります。そういうのが、碓氷製糸が生き残る戦略の基本ですね。」
製糸業の工程をさらに詳しくお知りになりたい方は、碓氷製糸株式会社のホームページに掲載されている動画「製糸工程開設ビデオ」をご覧ください。
碓氷製糸の国産シルク製品販売コーナー
工場見学が終わった後は販売コーナーへ。碓氷製糸の生糸で作られた国産のシルク製品が販売されていて、その場で購入することが出来ます。
国産シルクは高級品なのでお値段が気になるところ。手前の左から2番目にある石けんは495円。それに対し、手前の右側にある石けんは2100円と4倍の値段です。この値段の違いは、製造工程にありました。値段が高い石けんには液体シルクが使われています。シルクを液体に分解する際に手間とお金がかかるため、どうしても高くなってしまうそうです。逆に値段が安い石けんには、物理的に破砕しマイクロパウダーとなったシルクが入っているそうです。
私が気になった商品は、こちらの『シルキーウォーム』。身体を洗うときに使うスポンジです。中は化繊で、外側はシルク生地で出来ています。中に化繊を使うことで泡立ちが良く、肌に触れる外側の部分はシルクなのでお肌がすべすべになるそうです。
土屋さん:「昨今の社会情勢により、昨年、弊社も少しだけ値上げをしたのですが、依然厳しい状況ですね。消費者の方々も『ただ安価な海外製のシルク製品ではなく、高品質な国産シルク製品が欲しい。』という人が増えてくれるといいですね。原料になる繭と生糸は、日本の養蚕農家と製糸工場が汗水たらして作ったものですから。」
製糸工場見学については碓氷製糸のHPでご確認ください。
碓氷製糸株式会社 | 工場見学・その他 | 工場見学について (usuiseishi.co.jp)
製糸業一筋!この道53年!今村工場長
今年73歳になった今村幸文(いまむら ゆきふみ)さんは、従業員から工場長と呼ばれ親しまれています。今村さんに工場長の仕事内容について伺いました。
工場に寝泊まり!?精密機械の守り人
ーー今村さんの一日のスケジュールを教えてください。
今村さん:「私は5時半に起きます。朝食を食べて、6時半には工場に入って、ボイラーをつけたり、水回りを見たりしています。工場では碓氷川の水を使っていますから、ものすごい集中豪雨がある時は川の水がとても濁るんですよ。そういう時は、川の水を止めて、上水道の水を入れています。そういうことも、ここにいるからできるんですよ。現場にいなかったらできないと思うので、ここに寝泊まりしながら、会社を守り、工場を守っています。」
ーーえ?工場に寝泊まりしていらっしゃるんですか!?
今村さん:「はい。昔の工場長はだいたい中にいたんじゃないですかね。富岡製糸場の工場長も、工場内に寝泊まりしていたのではないかと思いますよ。
昔は朝5時から夜10時までやっていました。製糸工場はだいたい2交代制でしたから。機械が心配ですからね。気になっちゃって、離れられないですよ。自宅は埼玉にあるので、休みの前の日に帰ります。」
ーー何時まで働いていらっしゃるんですか?
今村さん:「今は、夕方5時半から6時くらいには終わるようにしています。しかし、機械のメンテナンスが必要な場合は、夜7時や8時くらいになることもありますね。機械を止めないとできない作業もあるので、こればかりは仕方がないです。大がかりな修理の場合は休日を使うこともありますが、できるだけ早く終わるように、段取りを考えながらやっています。」
主な仕事は機械の調整・コントロール、従業員の育成
ーー機械の故障というのは、どんな故障が多いんですか?
今村さん:「一番多いのは、ギア関係ですね。歯車。昔の機械ですから、すり減ったり、ずれたり、金属疲労が多いです。こういうギアがいっぱいあるんですけど、それを新しく作ってもらい、ひとつひとつ交換します。こういう細かい部品を解体して交換するのは時間がかかりますね。」
今村さん:「繭を煮る煮繭機(しゃけんき)の容器の点検もかかせません。何かの拍子に、繭を入れるステンレス製の網カゴが引っかかる場合があるんですよ。網カゴの数が多いので、それはもう大変です。私は慣れているので、蓋を開けなくても、ちょっとチェーンを緩めて、ちょっとずらして、ちょっとバックして調整します。でも、そういうのを知らない人だと普通は1日かかります。」
ーー機械を熟知していらっしゃるからこそですね!どうやって習得されたんですか?
今村さん:「経験でしょう(笑)。
この前はこれだったな、この場合はこれだなって。どなたかに教わる方法もあったけれど、やっぱり自分で体験して、やった方が身につきますね。
煮繭(繭の煮方)だって100万通りも200万通りもあるって言われているんですよ。」
ーーえー!100万、200万通りですか!?
今村さん:「そうです。煮繭(しゃけん)だって、ちょうどいい煮方があるんですよ。
繭の収穫時期や品種によっても違うし、その日の天気によっても違う。日々、扱う繭毎に、煮上がりを見て、堅いな、柔らかいな、ほぐれが悪いなというのがわかるようにならないとだめです。
煮すぎてほぐれ過ぎると、まとめて繭糸がほぐれることが多くなりますから、1本の糸が出るように煮るには見極めが重要です。いわゆる「適煮(てきしゃ)」です。
温度を上げたり、下げたり、そういうことを徹底して、長年経験しながらやってきました。」
ーー従業員の育成もしていると伺いました。
今村さん:「今は新しい方は入ってこないですし、辞めるばかりですけど、昔は大体、毎年20人ぐらいずつ養成教育をやっていましたね。その時は、半年間ぐらい付きっきりで、部品や機械の名前、やり方など、いろいろ教えていました。」
ーーやはりコツがあるんですか?
今村さん:「ありますよ。癖のないようにみんな同じようにやってもらう必要がありますからね。基本の動作は絶対に崩さないようにして、右利きの人も左利きの人も同じように統一して出来るように指導していましたね。これまでに500人以上には教えたと思いますよ。」
ーー従業員の方が担当する機械は毎日変わるんですか?
今村さん:「いえ、だいたい同じところでやります。でも、いろいろな作業ができるようにはしています。ある程度どこでもできるようにしておかないと、1人休んだら困りますのでね。」
きっかけは「白いダイヤ」 生糸への憧れ
今村さんは九州の宮崎県生まれ。20歳で埼玉県東松山市にあった日本シルク株式会社に入社。当時は製糸業が一生の仕事になると思ったと言います。
ーー今村さんが製糸業に就職しようと思ったきっかけは何だったんですか?
今村さん:「私は昭和46年(1971年)に入ったんですけれど、その頃、繭が「白いダイヤ」、シルクが「繊維の女王」と言われていましてね。製糸工場というか、生糸に憧れを持っていました。伝統産業でもあるしね。
自分の職業としてどうだろうかと思っていたときに、たまたま募集を見て、当時の社長と会って、来てくれってことになって。しかも、その時は宮崎にいたので飛行機で送り迎えされたりしてね。
東京上野に東天紅(とうてんこう)という中華料理店があるんですが、そこで食べたこともないようなものを接待されて、なんとか来てくれって。情熱を感じて来たといいますかね。埼玉にある会社(日本シルク株式会社)だったんですけど、それからずっとその会社にお世話になりました。もちろん社宅にも入れますし、光熱費を安くしていただくなど、生活費はだいぶ考慮していただきました。」
ーー待遇の良い会社だったんですね!ずっと社宅だったんですか?
今村さん:「最初は会社の寮に入りましたが、結婚したので寮から出ようと思ったんです。でも、その時には管理職になっていたので、工場内の社宅に家族で一緒に暮らすことになりました。通勤したことは一度もないです。碓氷製糸でも平日は単身で工場内の寮で生活をしているので、まったく同じですよね。23年間(日本シルク)、30年間(碓氷製糸)、合わせて53年も経ちましたよ。まいったな(笑)。」
ーー53年間も社宅に寝泊まりしながら、この業界一筋とは!本当に凄いですね!
スカウトで碓氷製糸へ
製糸業は、かつて、生糸相場の変動で、再生や倒産は当たり前だったそうです。昭和33年(1958年)は、製糸業にとって『さんざん』な年。輸出先であったニューヨークの生糸相場が大暴落したためです。その影響を受け、国内の製糸工場は次々に閉鎖。農家は売れない繭をリヤカーに乗せ、右往左往したこともあったといいます。繭の売れない事態に危機感を覚えた碓氷安中(うすいあんなか)地域の養蚕農家の人たちは、自分たちで生糸を作ろうと決起し、昭和34年(1959年)に碓氷製糸農業協同組合を設立しました。
ーー碓氷製糸に入るきっかけは何だったんですか?
今村さん:「グローバル化といいますか、いろんな情勢で、繭の値段も下がって、どうも製糸業が減っていく時代に入ったんですよね。私自身、この仕事が嫌いじゃなかったですから。ここ(碓氷製糸)は農業協同組合で、組合製糸って言いましてね。要するに養蚕農家がやっているという経営でした。ここだったら、長く働けるかなって。
当時、ここの組合長だった茂木雅雄(もてぎ まさお)さん(後の大日本蚕糸会 副会頭)という人が、私がいた日本シルクの社長と交流があった様で、私にうちで働いてもらえないかと、事前に話をされていたようです。」
ーースカウトだったんですね!
今村さん:「はい。日本シルクは日本一の工場でしたから、その頃の生糸生産量が7,500俵もあり、繭を250万キロも使ってました。でも、茂木さんの話を聞いてるうちに情熱を感じてね。日本の製糸を最後までやるんだって話を聞いて、この人は凄いなと思ってね。だからその情熱を感じてここに来たんです。日本シルクで開発したチーズ巻きの機械を持ってここへ来ました。」
ない部品は自分で作る
土屋さん:「これは繊度感知器(せんどかんちき)と言って、糸が目的の太さより細くなると繭を追加するように知らせてくれる感知器です。このオレンジ色と白の繊度感知器は、今村さんのお手製なんですよ。今村さんは、こういう部品も自分で全部作れるんです。ゴミがたまらないように改良してくれたので、繰糸作業の効率が上がるようになりました。」
今村さん:「いろいろ改良しました。やりやすいようにね。もちろん、機械の改良もするけど、女性でも扱いやすいようにスイッチをボタンに変えました。昔は足で踏むタイプでしたが、女性には大変そうでね。昔のものを維持するんじゃなくて、扱いやすいようにして、なおかつロスがないように。いい糸を作るための手段として、それをやるしかないかなと思ってやってきましたね。」
ーー今村さんは学生時代にこういう勉強をされたんですか?
今村さん:「いや、していなかったですよ。でもやっぱり人間は毎日勉強ですから。昔は人がやっていることを盗めって言われた時代ですからね。だから関係ない仕事もいろいろ見ました。私、大工さんって頭が良いと思うんですよ。すごい人たちですよね。あ、こういうこともできるんだって意外とヒントになったりするんです。電気屋さんもそうですよ。私は電気の免許を持っていないけど、大体許容範囲内では色々工夫して、やりやすいようにしていますね。」
ーー碓氷製糸の強みは何だと思いますか?
今村さん:「従業員は地元の人が多く、務めると長く働いてくれる人が多いので、熟練工みたいになります。そういう意味で安定した製品ができることじゃないかな。
また、碓氷川が近くにあるので、水が豊富なんですよ。製糸工場は水を大量に使う仕事なので、水を豊富に使えるのは素晴らしいことです。いい水、いい繭、いい生糸っていうヤツですね。」
ーー工場長として一番大事にしてらっしゃることは何ですか?
今村さん:「信用をなくさないこと。それから従業員が楽しく働ける関係作りも大事ですし、機械も整備しないとね。会社の従業員たちが『私はこの機械について、この機械で仕事をしたい』という気持ちにならないと、いい糸はできませんから。機械を使いやすいように、仕事しやすいように整備してやる、それが大事なことだと思います。」
碓氷製糸に作れない生糸はない「オーダーメイドの生糸作り」
土屋さん:「国産にこだわり抜いた糸が欲しいんだっていう人たちの要望に応えるというのはうちの生きる道の一つだと思うんですよね。最近もブラシ用のかつてない太い生糸を今村さんが作ってくれました。」
今村さん:「普通の自動製糸機では 挽けないものまで挽いてますからね。誰もがそれは無理だっていうものまで『大丈夫だ!』って作ります。」
ーー例えばどんなものがありますか?
今村さん:「例えば、400デニールの生糸なんていうのは、これまでの製糸工場ではできないですよ。」
ーー繭糸1本の細さは約3デニールでしたよね。ということは、相当太い糸ということですか?
今村さん:「そうです。繭玉1個3デニールとしてそれが400だから、100倍以上。そうなると、繊度感知器(せんどかんちき)がない。でも、作れるから作ります。繭は約150粒(りゅう)になるので生糸の引っ張る力はすごく強いんですけど、それをちゃんとコントロールできるように機械を改造して、150粒でも小枠が止まらないように改造しました。すごく難しいです。」
ーー碓氷製糸は難しいオーダーにも対応して生糸を作ってくれるんですね!
土屋さん:「群馬県には群馬オリジナルのお蚕の品種があって、今村さんがこういう部品を作ってくれるから、生糸も14デニール、21、27、31、42、55、60、110、180、200、400といろいろな太さの糸を作れます。さらに、ネットロウシルクや、ふい絹(ふいぎぬ)という糸があり(画像キャプションに詳細あり)、ねじり括仕立ての和装用出荷と、ボビン仕立ての洋装用出荷もできます。ものすごくきめ細かくお客様のご要望に答えられる工場であり続けていること、こういう仕組みを可能とする技術者がいて、多様な機械なくしては、碓氷製糸は生き残れなかったですよ。 今村さんはその要ですから。」
群馬オリジナル蚕品種(さんひんしゅ)はぐんま200、なつこ、新小石丸、ぐんま黄金など9品種。
群馬オリジナル蚕品種 - 群馬県ホームページ(蚕糸技術センター) (pref.gunma.jp)
生涯現役!この機械を守りたい
製糸業に携わるようになって53年。今村さんは、いつしか現役の器械製糸工場を動かせる日本で唯一の工場長とも言える貴重な存在になっていました。
ーー長年製糸業に携わって来られて、一番何を感じていらっしゃいますか?
今村さん:「まさかこんなに衰退する仕事だと思わなかったですね。ここに来る当時、全国で器械製糸工場は5社残ればいいだろうっていう話があったんですよ。まさかここまで…1社、2社になるなんて思わなかったですよ。やっぱり後継者を教えられないという寂しさもありますよね。ここでなくなるのかなと思います。」
ーー後継者は募集していらっしゃらないんですか?
今村さん:「かわいそうでしょ。入って来たって、繭がなくなったらどうするんですか。」
ーー難しい問題ですね…。では、実際に後継者になる人はいらっしゃらないんですね。
土屋さん「いえ、実は、1人、東京農業大学の学生が、碓氷製糸に就職したいってやってきたことがあります。また、今、地元安中市が地域おこし協力隊で碓氷製糸の協力隊員を募集をしているんです。応募者が現れれば、今村さんについてもらって、工場だととか、技術を教えてもらって後継者候補になって欲しいと願っています。」
ーー今村さんにお弟子さんが出来るかもしれないですね!出来るといいですね!
今村さん:「……いや、可哀そうですよね。大変だしね。覚悟がないと絶対続かないですよ。」
ーーそうですよね…。ずっと泊りという話を聞いてびっくりしました。
今村さん:「ふふふ(笑)。変わってる?(笑)」
ーーいやいや、ずっと泊りで朝6時半からなんて、もう頭が下がります。本当に凄いです。この機械が子どもみたいなものですね。
今村さん:「そうそう。」
ーー何歳まで働いていたいですか?
今村さん:「いや~(笑)。
なんというか、守りたいというかね。半世紀以上働いている機械もみなきゃだめだろうしね。私はいまのところ身体は丈夫だから、身体が動く限り働くしかないかなって思っていますよ。」
土屋さん:「今村さん、100歳までやってくださいよ!(笑)」
土屋さん:「去年、フランスの人たちが10人ほど工場見学に来たんです。そのとき『私たちは中国の工場などいろいろ見て回りましたが、ここの機械が一番綺麗にちゃんと整備されている』って言ってました。今村さんがしっかり大切にしてくれているから綺麗なんです。」
碓氷製糸の進む未来
製糸業の現状と、碓氷製糸のこれからについて土屋さんにお話を伺いました。
崖っぷち!日本の製糸業の現状
ーー今、日本に製糸工場はどのぐらい残っているんですか?
他には、国内用という意味の国用(こくよう)製糸工場という小さい工場が3か所、また、長野県の岡谷蚕糸博物館内に併設されている宮坂製糸所、それから愛知県の野村町にある西与市野村シルク博物館に併設されている製糸所が残っています。
つまり、いわゆる製糸工場は日本に7か所だけですね。」
ーー養蚕農家はどのぐらいいらっしゃるんですか?
土屋さん:「群馬県で50戸。全国では140戸ぐらい。一番多いとき(1901年)で、群馬は8万7000戸ぐらいあったんですけどね。
群馬の場合、昭和40年代は2万7000トンの繭があったんですよ。それが、私が群馬県庁に入庁した昭和60年になると1万3000トンになってしまい、『繭が半分になって大変だ』って言っていたんです。その頃に碓氷製糸に来ていた先輩が『碓氷製糸が年間操業するには最低で繭30トンが必要だ。そのうちそういう日が来るかもしれないな。』と話していたことは、今でも頭に残っているんですけど、去年買った繭が30トンなんですよ。」
ーー結構ギリギリですね!
土屋さん:「本当にね、状況を考えれば数年後になくなっても不思議じゃないですよ。
碓氷製糸は、45トンの国産繭のうち30トンの繭を買っている。約7割の製糸を作っているから、碓氷製糸がなくなったら、実質的に日本の蚕糸業は終わるんですよ。
でも私は、養蚕と製糸を世界遺産『富岡製糸場と絹産業遺産群』とともに、ここ群馬県、先進国日本になんとしても残したいと思って働いています。」
ーー碓氷製糸が国産繭にこだわるのは、国内の養蚕農家を守るためだったんですね。
土屋さん:「国内で流通するシルク製品のうち、繭から純国産の割合は0.16%なんです。」
ーーえ?1%もないんですか?
土屋さん:「はい、1%を切っています。
この間、桐生で裏千家という茶道の青年部の研修会があって、シルクの話をしてくれないかって言われて、講師をしてきたんですよ。茶道の方だから、みなさん着物を着ているじゃないですか。
『皆さんが着ている着物は、実はそのほとんどがブラジルや中国のシルクでできています。ご存じですか?』って聞いたら、皆さん知らないんですよね。着物を買うと日本のシルクだと思っているわけだから。
食品みたいに群馬県産とか書けるといいですけど、絹100%じゃわからないしね。
『茶道は日本の文化です。でもお抹茶が、もし99%中国産とかだったらおかしいと思いませんか?日本の着物文化って言いながら、今はそういう現状なわけです。』っていうお話をしてきたんです。」
ーー着物は日本の文化ですから、日本の生糸を使って作って欲しいですよね。今後、どのような方法を取れば、製糸業を残していけると思いますか?
土屋さん:「どんな方法で碓氷製糸や日本の蚕糸業を残すかっていうのは、現状ではまだいくつか選択肢があるので、それぞれの可能性を探りながら具体化して、ここ碓氷製糸を残し、日本の養蚕農家を残したいと思っています。
うんと儲けなくてもいいし、昔みたいにいっぱい作ってもらわなくてもいいんです。なくならない程度の量、今ぐらいの量の繭(年間30トン)を何とか維持できれば、私は残せると思っているんですよね。」
新商品「ヘアマスクとシャンプー」に期待大!
ーー具体的にはどんなことを考えていらっしゃるんですか?
土屋さん:「いくつかあるのですが、まずは、シルクの新商品を作って、売り上げをアップさせていきたいですね。会社の売上げ全体で黒字化できたらいいので。」
ーーどんな新商品なんですか?
土屋さん:「まずは、シルクのヘアマスク(トリートメントの一種)とシャンプーを加えたいと考えています。」
ーー髪へのアプローチですか!そういえば、シルクのヘアケア製品って、今人気なんですよね!
土屋さん:「よくご存じで!シルクは髪の毛にとてもいいタンパク質です。最近はナイトキャップや枕カバーがブームになっていると聞いています。そのムーブメントを受け、シルク入りヘアマスクとシャンプーを考えました。碓氷製糸のシルクを原料としたセリシンとフィブロイン、2種類のシルクタンパクに加え、群馬の特産であるこんにゃくのセラミド、酒粕エキスなど、髪の毛にいい成分をどーんと入れて、群馬のいいもの全員集合みたいなシャンプーを作ろうと思っているんです。値段は3000円程度に抑えたいと思っています。ヘアマスクはちょっと高くなるとは思いますが、年度内には新発売したいですね。皆さんに、シルクのある豊かな生活をご提案したいと思います!」
繭糸は「フィブロイン」とそれを保護する「セリシン」で出来ています。フィブロインとセリシンは共にタンパク質。セリシンは保湿効果がすぐれていて、外部の刺激から肌を守るバリア機能もあり、UVカット効果なども期待できます。
世界から日本の品種の繭を買う?
ーー他には何かありますか?
土屋さん:「私が県庁で働いていた時に『ぐんまシルク国際アカデミー』というのを考えたんですよ。ベトナム、ネパール、ウズベキスタンなど、世界の発展途上国の養蚕農家などを群馬県に呼んで、養蚕なら県蚕糸技術センターで、生糸なら碓氷製糸で勉強してもらって、帰国したら指導者になる。勉強しながら生産した繭は碓氷製糸に出荷する。そして、養蚕に必要な道具や機械の作り方も教えて、母国で作ってもらえば、日本の養蚕農家がその機械を輸入して使えるようになる。そんなことをやろうとしたことがあったんですけど、コロナ禍で4年間凍結になってしまい、私は退職しちゃいました。残念なんですけどね。」
夢は、世界遺産「富岡製糸場」の再稼働!
最後に、土屋さんから夢のあるお話を伺うことが出来ました!
土屋さん:「いま、富岡製糸場の再稼働を検討しているプロジェクトもあるんですよ。」
ーーえー!富岡製糸場の機械を動かせるんですか?
土屋さん「今村工場長は動かせるって言っています。うちにある機械と同型の機械ですしね。
碓氷製糸の機械で大規模な修理が必要なときは、長野県にある蚕糸機械メーカーにお願いしているんです。有限会社ハラダという会社なんですが、その会社の80代の会長さんにしか直せないのでね。去年、その会長さんと今村さんと一緒に富岡製糸に行って繰糸場を見てきましたよ。今村さんも、ハラダの会長さんも、動かせるって明言しました。この二人が元気なうちならば、富岡製糸場を動かすことは夢じゃない。
世界遺産になった富岡製糸場の繰糸機が動いたら、見ごたえあるんじゃないですか!再稼働となれば話題にもなって来場者も増えるだろうし、それを見た若者がかっこいいって製糸業に興味を示してくれるかもしれないし、雇用につながるかもしれないしね。
今、群馬県と富岡市を交えて話し合いながら検討している最中です。ただ、国の史跡、重要文化財でもあるので、難しい課題はたくさんあります。再稼働にはものすごい手間もかかるし専門知識も必要なので、5年、10年かかるかもしれない。でも、何とかね、養蚕農家と製糸技術者を世界遺産とセットにして未来に残したいと思っています。」
細く長く輝く生糸のように!蚕糸業を未来へつなぎたい
ーー今後、日本の製糸業はどうなっていくと思いますか?
土屋さん:「私、中国の蘇州にある一番大きな製糸工場に行ったことがあるんですよ。そこは5500トンの繭が入る倉庫があって、製糸工場があって、紡績工場があって…、ここで終わらないです。布団工場があって、インナー工場があって、アウター工場があって…、まだあるんですよ。化粧品工場があって、桑茶工場があって、レストランがあって、直売店があるんです。全体として750億円も売り上げると言っていました。
それを見て思ったのは、日本の蚕糸業がここまで衰退した原因のひとつは、生糸を自社製品化してこなかったことだと思うんですよね。日本は生糸をたくさん輸出して儲かったじゃないですか。生糸で成功したから、逆にそれが仇となって、実は一番儲かる製品化をしてこなかった。それがこの国の失敗だと思います。
これからは、原料繭から消費者まで、その情報をつなげた製品づくりと流通販売をしていかないとね。着物を買ったら全部国産だと思うような今のおかしな状況を変えていかないといけないですね。」
ーー製糸業は今後残っていくでしょうか。
土屋さん:「そもそも日本には1300年を超えるシルクの歴史があって、特に、明治以降150年間は、この日本の近代化を支えてきました。シルクカントリーとも言える日本から、養蚕、製糸がなくなるということを、日本国として甘んじて受け入れるべきことなのかと、私は疑問に思うんです。富岡製糸場とともに碓氷製糸や養蚕農家は、日本の未来にあるべきだと思うし、日本人のみなさんも『そうだよな』と言ってくれるのを期待しています。
私が碓氷製糸に来たのも、群馬の多くの農協や商工会の関係者、多くの方々が、『碓氷製糸はつぶしちゃしょうがねえな、蚕がなくなっちゃうしょうがねえな』と言ってくれますし、『繭と生糸は日本一』と上毛かるた(群馬の郷土かるた)にも詠まれていますから。
今でもそうなんです。群馬の繭の生産量は2万7000トンが、18トンになりましたけど、それでも日本一なんですよ。
この間、上毛新聞社(群馬県の地方新聞)の内山会長が取材に来て『上毛かるたには日本で最初の富岡製糸とある。最後の蚕糸業を守るのは碓氷製糸だ』と、『日本で最初の富岡製糸、日本で最後の碓氷製糸。最後の砦だ』と記事に書いてくれました。ありがたい話です。
日本の蚕糸業を生糸のごとく、細くてもいいからね、何とか未来に繋げていきたいと思っています。」
編集後記
「いずれにしても繭がなくなったら終わり」という土屋さんの言葉が印象的でした。製糸業は、碓氷製糸の努力だけでは成り立たない産業であり、国産繭にこだわる以上、日本の養蚕農家に繭を作り続けてもらう必要があることもよくわかりました。また、工場長の今村さんが工場内の社宅に寝泊まりしながら、ずっと機械を守り続けていることにも驚きました。後継者を指導出来ないことを寂しく思う一方で、若者が就職を希望しても喜べず、逆に戸惑い、心配する姿が印象的でした。若者の将来を案じての苦悩ですよね。でも、お二人の心配をよそに、その若さで製糸業に新しい風を運んで欲しいと期待せずにはいられません。
午後、せっかくなので富岡製糸場にも足を運び見学してきました。私にとっては3度目の訪問です。西繭倉庫が完成していて、以前より見応えが増していましたが、碓氷製糸で実際に動いている自動繰糸機を見てきたばかりだったので、ビニールをかぶった繰糸場には、正直、物足りなさを感じました。これが動いたら感動すること間違いなしですね。いつかその日がやって来ることを楽しみにしています。
この記事は、私にとって、ものづくり新聞に投稿する記念すべき第1号です。私は、20代後半、NHK前橋局のキャスターとして、3年間、群馬の魅力を伝えてきました。群馬は私にとって第二の故郷。当時、取材でお世話になった蚕糸業の方とは、今でも交流があり、碓氷製糸を紹介する動画のナレーションも担当させていただきました。ものづくり新聞で、最初に何を伝えようかと考えたとき、真っ先に思い浮かんだのは、群馬の蚕糸業の方々が日本の養蚕や製糸業を何とか守りたいと奮闘する姿でした。この記事を読んでくださった皆様から何か良いアイデアが生まれたり、ご自身のものづくりの参考になったり、何か少しでもお役に立てれば幸いです。
(ものづくり新聞 小柴寿美子)