主役を引き立てる器づくり。窯元の親子二代がそれぞれ信じる有田焼の未来

2024年11月8日 公開
佐賀県西松浦郡有田町とその周辺地域は、400年以上の歴史がある有田焼の産地として有名です。1616年、日本で初めて磁器の生産に成功して以降、国内外に有田焼を届けてきました。
 
しかし、現在の有田焼産地は、後継者不足、材料費や燃料費の高騰、分業体制の崩壊の危機による機会損失や納期の長期化、出荷額の減少など、様々な課題を抱えています。そんななか、NEXTRAD(ネクストラッド)というグループの一員として、その課題に向き合う若手経営者と後継者たちがいます。
 
提供:NEXTRAD / promoduction
提供:NEXTRAD / promoduction
 
NEXTRADは、佐賀県 伊万里市と有田町の窯元の若手経営者及び後継者などで結成したチームです。2022年からGo forward というオープンファクトリー・製造体験展示イベントを主催しているほか、インスタグラムでリレー形式でそれぞれの取り組みなどを発信しています。
 
彼らは、NEXTRADのメンバー間だけではなく、産地内外の窯業関係者とも密に関わっています。有田焼産業における持続可能な未来のために、経営者や職人としての任務を果たす傍ら、日々発信活動をしています。(参考:NEXTRAD
 
取材時のNEXTRADのメンバーのうち、3名の経営者・後継者にお話を伺いました。NEXTRADの皆さんのそれぞれの活動や思いを通して、有田焼産地の未来が垣間見えるかもしれません。

今回編集部が向かったのは、佐賀県 西松浦郡 有田町の有限会社 李荘窯業所(りそうようぎょうしょ)です。李荘窯業所は、有田焼の陶祖、李参平(り さんぺい)の住居跡に1930年に創業した窯元(焼きものの商品開発を担当する事業者)です。
提供:有限会社 李荘窯業所
提供:有限会社 李荘窯業所
提供:有限会社 李荘窯業所
提供:有限会社 李荘窯業所
李参平とは、有田焼の陶祖です。1616年以降、400年を超える歴史を持つ有田焼の産業の礎を築いた人物として知られています。日本で初めての磁器生産に成功し、ここ有田の地から国内外の人々に美しい磁器を届けてきました。
 
李参平の住居跡という歴史が色濃く残るここ、李荘窯業所には、現在はどういったものづくりをしている人がいるのでしょうか?
4代目代表の寺内信二(てらうち しんじ)さんと、信二さんの長男 寺内貴信(てらうち たかのぶ)さんにお話を伺いました。

寺内信二さん

寺内信二さんは、大学卒業後、数年商社で勤めた後、1991年に李荘窯業所に入社。李荘窯業所の敷地内の土からは、昔の陶工が残した多くの陶片が見つかりました。その陶片から技法の変遷を読み取り、そこから染付など、様々な技法を習得されました。(参考:李荘庵, きんしゃい有田豆皿紀行 p.23)

料理という主役を引き立てる器づくり

李荘窯業所が手掛けた、朝顔ボウル。実際に本物の朝顔をスキャンし、データ化して焼きものにした商品。ニューヨークのレストラン、Restaurant Yuuにて。(提供:有限会社 李荘窯業所)
李荘窯業所が手掛けた、朝顔ボウル。実際に本物の朝顔をスキャンし、データ化して焼きものにした商品。ニューヨークのレストラン、Restaurant Yuuにて。(提供:有限会社 李荘窯業所)
ーー李荘窯業所ではどういったものが作られているのか教えてください。
信二さん:「お皿や茶器など、食に関わる道具を作っています。どちらかと言うと、レストランなどで使用される業務用の食器の割合が大きいですね。ただ、業務用か一般用かの線引きは同じ食に関わる道具という点ではあまり重要ではないと思っているので、あえて曖昧にしています。」
李荘窯業所が手掛けた、錆吹付(さびふきつけ) 陶石ステージプレート。ニューヨークのレストラン、Restaurant Yuuにて。シェフとの対話から、佐賀の食材を用いた料理が盛られるということを知り、その土地の食が器とともに風景を映し出すように、という思いで陶石をイメージして作ったものだそうです。泉山磁石場で見た、陶石の壮大な景色が頭に浮かびました。(提供:有限会社 李荘窯業所)
李荘窯業所が手掛けた、錆吹付(さびふきつけ) 陶石ステージプレート。ニューヨークのレストラン、Restaurant Yuuにて。シェフとの対話から、佐賀の食材を用いた料理が盛られるということを知り、その土地の食が器とともに風景を映し出すように、という思いで陶石をイメージして作ったものだそうです。泉山磁石場で見た、陶石の壮大な景色が頭に浮かびました。(提供:有限会社 李荘窯業所)
 
ーーそうなのですね。信二さんが器づくりにおいて気にかけていることはありますか?
信二さん:「料理とかけ離れたものづくりにならないように、ということをいつも気にかけています。食器は、いつもそこに料理が盛られて初めて完成するからです。器自体では完成しない、単体で見ると少し物足りないくらいの未完成の状態が、最も料理を引き立てるいい器だと思うんです。『食器は料理のきもの』という、20世紀を代表する日本の芸術家、北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)が残した有名な言葉(参考:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社)からも、食器には料理を引き立てるという大切な使命があると考えています。」
 

お茶好きだからこそ細部にこだわって作れる茶器がある

(取材時は、信二さんが李荘窯業所で作られた茶器で嬉野茶を淹れてくださいました。)
 
ーーこの茶器にはどういったこだわりがあるのですか?
信二さん:「『茶器を作ってほしい』という依頼に対して、形にすること自体は簡単で、それはどこの窯でもできることだと思います。でも、ちゃんとお茶のことを理解している人が作った茶器と、そうじゃないものではその細部に大きな違いが生まれるはずです。
茶器において、美味しいお茶を淹れるためには、形状やサイズ、機能がとても重要になります。お茶の製造方法によって、旨味の引き出し方や適した温度、淹れ方などが大きく変わってきます。私たちが茶器をお茶を絞り切りやすい形状にしているのも、お茶の最後の一滴に最も味が凝縮されているのを知っているからです。お茶を美味しく飲みたい、美味しく淹れたいという気持ちに応える道具として、そういった機能を持たせています。」
 
ーー最後の一滴も入れていただいた嬉野茶、甘みがあってとても美味しかったです。
 

有田焼の歴史をたどって見つけた、もうひとつの有田焼

さいたま市大宮盆栽美術館特別展図録『ウキヨエ植物大図鑑』より転載。
さいたま市大宮盆栽美術館特別展図録『ウキヨエ植物大図鑑』より転載。
ーー信二さんがものづくりにおいて一番大切にされていることを教えてください。
信二さん:「やはり一番大事なのは、有田焼が好きかどうかだと思うんです。好きなものは歴史的な背景を含め、とことん知りたいと思いますし、愛のあるものづくりをしていかなければ、いくら技術が優れていたとしても先に続いていかないと考えています。
有田焼が食器としての認知を獲得していった一方で、実は江戸園芸の世界でも、有田焼が植物鉢としても使われていたということを最近知ったんです。鉢のなかに植物を植えて愛でるという、日本の鉢物文化が江戸時代の美人画の中にも描かれています。幕末までは、有田焼が実際に植物鉢として人気だったという記録も残っているのだとか。そういった歴史を踏まえると、やはり料理や植物といった主役があって、それを引き立てる存在こそが器であるということなんでしょうね。 植物鉢や歴史と繋がりのある新しい取り組みも準備しているところです。」
 

後を継ぐということは「続けていくこと」とは限らない

ーー長男の貴信さんに日頃から意識して伝えていることはあるのですか?
信二さん:「同じことをし続けなくていいから、全部壊してもいいんだよといつも話しています。そもそも自分も、父親から後を継いでから今日まで全く違うことをしているので、結局はきっとそれでいいんです。必要だと思うものだけ残せばいいし、必要じゃないと思ったものはなくしたっていいと思っています。
ただ、これはいつの時代も大事だなと思うことが2つあります。ひとつは、『この依頼は応えられない。無理だ』と簡単に諦めないことです。失敗するかもしれないというリスクがあったとしても、ノーと言わない。無理と思うのではなく、じゃあどうしたら出来るのか?ということを根気強く考え続けた先にこそ、新しいものづくりへの道が開けてくるのではないかと考えています。
もうひとつは、時代の流れをしっかり見ることです。歴史の延長上に現在があり、その都度色々な変化があって、周期的に過去に流行ったものがまた流行ることもあって、そうやって時が巡っていく。時代の流れの見方を間違わなかった会社は残っていくのだと信じています。」
 

寺内貴信さん

寺内貴信さんは、1992年 佐賀県有田町生まれ。大学卒業後は飲食店やホテルでの勤務を経て、東京都内で4年ほどの食器販売会社のお仕事にも携わっていました。2年前に有田に戻り、1年間佐賀県窯業技術センターの研修所で窯業についての基礎を学んだのち、李荘窯業所に入社。(参考:NEXTRAD

情報システムデザインを学んだ大学時代

ーー学生時代はどういったことに興味があり、どんな勉強されていたのですか?
貴信さん:「高校を卒業した当時はインターネットの発達が目まぐるしかった時代で、そういった業界が自然と魅力的に見えて、その世界で就職しようと考えていました。父親や祖父母も、後を継ぐことに関しては誰も強制することはありませんでした。『自分の進路は自分で決めな』と父親が言ってくれたことで、情報システムデザインが学べる大学に進学しました。」
 

日本各地の飲食店・ホテルで活躍する有田焼を見て、李荘窯業所への入社を決意

ーーその後大学を卒業されて当初考えていた進路に進まれたのですか?
貴信さん:「システムエンジニアになるための勉強をしていたのですが、周りについていけず大きな挫折を味わいました。大学卒業後、父親の仕事についていく機会があり、今まで知らなかった有田焼を見て、そこで少しでも器に関わるような仕事をしてみようと思い、いくつかの飲食店やホテルで働いてました。ホテルでは食器販売店の方と関わる機会もありました。
ーーその食器販売店というのが、その後お仕事をされていた企業ですか?
貴信さん:「そうです。東京の築地にある商社で4年ほど働いていました。日本料理屋など飲食店のオーナーやシェフが主なお客様でした。店舗のオープンのタイミングで、店内で使用するテーブルコーディネートにまつわるあらゆるものをまとめて購入したいといったニーズに応えることができる事業形態でした。焼きもの以外にもあらゆるテーブルウェアを扱っていたので、当時はその一つ一つがどのように作られているかというところまでしっかり学ぶ余裕がなかったというのは、もったいないことをしたなと思っています。
 
ですがその4年間で、有名なレストラン、ホテルなどの色々な所で有田焼が実際に使われていることを知ったのです。それまで、地元にあり、すごく身近であったはずの伝統産業の有田焼について目を背けていたことを後悔しました。
 
そして、当時、扱っていた既製品では当てはまらないような仕様のものをお客様に求められた際はご期待に沿うことができず、とても歯がゆい思いをしました。その話を父親にすると、『うちでそれ作るよ』と言ってくれたことがありました。父親の、ノーと言わない姿勢から、自分もそういったものづくりに関われる作り手になりたいという思いが、次第に大きくなっていきました。そして、2022年に有田に戻ってきて、その1年後に李荘窯業所に入社しました。」
 

様々な業務に関わり、技能を取得。生産ラインの改善策も模索中

ーー入社されてから現在まで、どういったことを主に担当されているのですか?
貴信さん:「工程を担当している従業員に偏りがあり、少数の従業員に依存してしまっている現状を見て、負荷が大きい従業員のサポートなどをしています。具体的には、型や生地の受け取りや倉庫への運搬作業の合間に、一部の技法の工程にも関わっています。そのうちの一つは、梨地(なしじ・なしぢ)という加工です。
梨地加工が施された食器。
梨地加工が施された食器。
素焼きの生地の表面にスポンジを当てて、ざらざらとした手触りを残すのが特徴の技法です。この他にも色々な技法や工程に関わっています。生産ラインの滞りを少しでも改善できないか?と自分が実際に手を動かしながら、解決策を模索しています。」
 
ーーざらざらとした手触りを均等につけていくのは手間も時間もかかりそうですが、その結果とても素敵な質感に仕上がっていますね。それでは、最後に先日東京で開催されたイベント・ジバニイキルと、現在参加されているグループ、NEXTRADについて教えてください。

自分の殻をどんどん破り続けていくものづくりに挑戦していきたい

ジバニイキルというイベントの李荘窯業所のブース。シェフとの対話で生まれたものを中心に展示。左奥にあるのは、錆吹付 陶石ステージプレート。
ジバニイキルというイベントの李荘窯業所のブース。シェフとの対話で生まれたものを中心に展示。左奥にあるのは、錆吹付 陶石ステージプレート。
ーー2024年4月にNEXTRADに入って約半年後、同年9月のジバニイキルで出展されてみていかがでしたか?
貴信さん:「ジバニイキルという東京で開催されたイベントでは、自社のことや有田焼のことを来場者に話す機会があったのですが、いざ自分の言葉で話すとなると、自分の中でまだ消化しきれていないことだらけだなと感じました。イベントの前後に父親にわからないことを聞いてみたのですが、聞いても何も教えてくれませんでした(笑)。」
 
ーーそうだったのですね(笑)。自分で答えを見つけて欲しいという信二さんの、貴信さんへの期待や愛情からかもしれませんね。これからどういったものづくりをされていきたいですか?
貴信さん:「有田焼のことは、知れば知るほどどんどん新しい発見があり、時には混乱することもあります。ものをカタチにするには表現をするのが難しいことが多々ありますが、それでも常に挑戦する気持ちを持って、自分の殻をどんどん破り続けていくものづくりに取り組んでいきたいと思います。どんなに困難なことでも、無理、できない、とすぐに諦めず、しぶとい精神を一番大事にして活動していきたいです。」
 
 
 
李荘窯業所 公式サイト
 
NEXTRAD 公式サイト
 
ジバニイキル 公式サイト
 
 

編集後記

有田焼産業に残る足跡にしっかりと向き合いつつも、時代の流れを読み、様々なことに果敢に挑戦される姿が印象的だった信二さん。その背中を追いかけながら、慎重に現状とも向き合い、自身の答えを模索している貴信さん。親子二代、それぞれが信じる有田焼の未来があるようです。取材時はお二人に別々にお話を伺ったにも関わらず、示し合わせたかのようにお二人から「無理、と簡単に諦めない、根気強くものづくりに向き合う姿勢」について言及があったことに驚きました。時が移り変わり、作るものが変わったとしても、その精神性は李荘窯業所で脈々と受け継がれていくのかもしれません。李荘窯業所のこれから、有田焼産業の未来に今後も注目していきたいと思います。(ものづくり新聞記者 佐藤日向子)
 
 

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